「コミュニケーション」について考えて思ったこと。

「コミュニケーション」について考えて思ったこと。

 

ああ、この人とずっと話していられる。でもさ、でもさ、これってさ、やっぱりさって言葉がかぶさってかぶさって話つきないわあ〜って思える人がたまにいる。美味しいものを食べながらとか、おしゃれなレストランとか単純にその人と話す時間や空間が心に満足感をもたらしてくれることももちろんあるんだけど、それ以上に話す楽しさと聞く楽しさを生んでくれるものはきっと誤解と妄想だなって思う。誤解と妄想ってのは人それぞれの解釈のことで、対象を見てその人がどうとらえているか。その数が多いほど、その幅が広いほど、モクモクと広がっていく。と、同時に私たちは違う解釈すなわち誤解と妄想に触れて、自分という存在の輪郭を確認している気がする。人に自分の意見を話し、人の意見を聞いて自分の美の基準や世界観、価値観を把握しているんだと思う。誰かと話しているときに普段絶対使わないことばがポロっとこぼれて、言った自分にびっくりすることがある。話しているうちに自分の発した言葉に納得されてたりする。だから誰かと話をすること、コミュニケーションをとるということはもしかしたらイコール自分自身を客観的に見ることなのかな。

 

その解釈ってのも、その人が生きてきた環境とか、好きなもの、つき合ってきた人などその人の立場によって大きく変わるものだから誤解と妄想は見る人の数だけ存在していて、それは当たり前のことで、あれ?この人ちょっと変わってるって感じても大切にしないとなって思う。生物は多様性を失うと絶滅するってどっかで聞いた。ひとつの決まった答えにすべての人が同意しないからこそ私たち人間は生き延びてこられたんだと思う。って考えると、ウ〜ンやっぱ受け入れる勇気と吸収する優しさをもった人になりたいなあ。捨てるかどうかはその後でもいいかもと思ってしまう。

 

人は語るとき、あるいは表現するとき、たとえ無意識だとしてもいつでも誰かを想定している。「別に誰かのためじゃなくて自分のためですから」って言ってる人はそもそも言ってる言葉が日本語だしね。もし人間が表現することをやめたら、きっとすごく息苦しくて、不安で不安で、もしかしたら死んじゃうのかも。

 

鏡を見ないとソワソワするし、落ち着かないし、不安になる。でも鏡は自分のいちばん外側しか映してくれないから、内側を見るためにはコミュニケーションするしかない。っていってもあ〜誰かとお話ししなきゃ〜って義務的に思うのはしんどいから、朝寝ぐせ直すぐらいの気持ちでねえねえって話しかけられる人になりたいなあ。