歌詞に出てくる雨は単なる雨ではなくてあの人の涙かなあ?って想像する時間がたぶん一番だいじ。

ピカソが残した言葉に「完成した後もそれを見る人の精神状態によって作品の印象は変わり続ける。絵画作品は見る人によって初めて生命を与えられているのだからそれは当然。」というのがある。よく作者の死後数十年経って世間に受け入れられただとか、現代になってようやくその価値が見出されるようになってきた。という話を聞くがそれはまさにこのことだと思うし、作品がモノとヒトの間に確実に「別の何か」を生み出していることを感じさせる。

 

よく恋とアートは似ていると先生は言う。どちらも「投げ手」と「受け手」が存在して初めて成立するもので、私(鑑賞者)とあなた(対象物)という位置関係をとっている。そこに存在しない何かを見る、感じるという行為そのものと、私(鑑賞者)とあなた(対象物)との間で起こる、生まれる空間や時間そのものを恋あるいはアートと呼ぶ。先生は2つの関係性をセックスとマスターベーションに例えて話してくれる。ただかたちの美しいものが作りたい、(自分が)見ていて気持ちいいフォルムのものを生み出したい。完成形を想像するのはとても大切なことだけど、それって1人でヤッてるのと同じじゃない?って。自分がそれを生み出すことで見る人がどんな気持ちになって、何を考えて、その場にどんな空気が生まれるのか。そこまでちゃんと考えてこそつくるってことだと思った。作品の制作者は常に自分の作品の最初の鑑賞者で、優れたアーティストとはイコール優れた鑑賞者のことだと思う。

 

モノやヒトを見るには目だけでは不十分。ちゃんと「みる」ためには何らかの学習や経験が必要で、それによって「みかた」も変わってくるはず。人間にしかできない「みかた」は例えば、実際に見えないものをみるとか。幼い子供がごっこ遊びをするのは想像する、妄想するという「みかた」をしているからかも。「みえかた」でいえば服が人にみえたとか、りんごが帽子にみえたとか。これも目で見たものを頭が勝手に書変えちゃってる分かりやすい例なのかも。もっと言えば人間は都合良くできているから、見たいものだけみる。見たくないものはみない。私たちはこの世界を見たいようにしかみてないのかもしれない。ということは裏をかえせば、この世界にはまだみえてないものがたくさん残されていて、私たちはそれに気づいてないのかもしれない。誰かが気づかないようにしているのかもしれない。

 

ああ、私がなりたかったのって、見えてなかったモノを見えるようにする人だ。そんな人になりたくて芸大来たんだった。って思い出した。

 

芸術という分野は時代背景や政治的できごと、流行には根本的に左右されない分野らしい。どんなに不景気でもたとえ戦争中でも、となりの人が死んだとしても芸術はその瞬間に生まれ続ける。皮肉にもそんな状況のときに芸術は大きく花開き、文明が起こり、新たな文化が生まれている。作者はただただ美しいものをつくっていたか。それはきっとちがう。鑑賞者に何をみせたいか、この世界の一体何がみえていないのかというなげかけをして、世界を変えようとしたのだろう。

 

絵の中に描かれた花は単なる花ではなく、写真に映る空は単なる空ではなく、歌詞の中に出てくる雨は単なる雨ではなく、何かの象徴であり概念なのかもしれない。そんな風に意識をもって「みる」と、この世界は想像していたより鮮やかだったということ、反対に汚くて残酷だったということに気づくのかもしれない。意識をもって「みる」きっかけを与える人がこの世界には必要で、そういう人に私はなりたい。